みなさんごきげんよう。
ただ今絶賛本厄中のイトーちゃんです。本厄から後厄へあと10日ちょっとです。
さてまだまだ若いと思っていたボクもいつの間にやら40代。
この半生を振り返ってみるとボクのターニングポイントは30代だったなあと感じます。
そんなわけで30代で考え方が変わり40代もこの勢いでガンガンいってやるぜと夢と希望でいっぱいなんですよね。
今日はとってもパーソナルな内容なんですみません。
ということで今日のお題目です。
若い頃は全く冒険心がなかったボク
ボクが育ったのは公務員の中でも警察官の家庭。
父が警察官、母は専業主婦でほとんど父は家にいないほど多忙でした。父が警察官ということもありそれなりに厳しく育てられていつの間にか親の顔色ばかり伺っていたいわゆる「いい子」でした。
悪いことはしてはいけない。悪い子と付き合ってはいけない。
そんな風に教えられていたので思い切り友達とハッチャケることもなくいたって真面目で保守的な子供時代を過ごしました。
どこかやんちゃしたり楽しそうにつるんでいる友達を羨ましく思いながらも親を心配させてはいけないという思いからどこか距離感を置くような子供でした。
だから子供の時に親友と呼べるような今も付き合っている友達はいません。
高校時代もそんな内向的な性格は変わらずとにかく親のために勉学に励む真面目な子でした。受験勉強にのめり込んでいました。
文化祭とか体育祭でも目立つことはなくみんなが打ち上げに行ったりしてる時に家に帰って受験勉強をしていました。そんな内気な高校生時代を過ごしました。
大学4年間はそれなりに楽しく過ごしました。
体育会の部活動に入り4年間は熱中しましたが、専攻の勉強となると学ぶ気力がなくやらされ感いっぱいで過ごしていたように思います。
結局ボクは大学受験に受かり親に認めてもらうために大学を受験したんですよね。
そんな甘い動機で大学に入ったのでやはり就職活動となると自分の主体性が全くありませんでした。ただただ親の背中を見て警察官になりたいと思っていました。
親の引いたレールに乗るのがリスクがないからと自分を守っていたんですよね。
自分に向き合うことが怖くてただただ流されていました。
そして就職活動に前向きではなかった背景には自分の中に就職したらもう人生は終わったも同然だというどこからきたのかというような諦めがあったからです。
社会人になることということに対する恐れとそこはかとない閉塞感があったんですよね。
そんなボクも地元企業に就職。
親は涙を流してとても喜んでくれたことを思い出します。でもそんな両親の期待をボクはまた背負うことになります。
仕事で辛くなっても泣き言を言わず黙々と働き続けました。当時は今ほど労働環境も良くなくて朝から夜遅くなるまでボロボロになるまで働いていました。
それでもやりがいはあったし楽しかったんですよね。
でも役職が上がり仕事の責任感がついてくると自分でも前後不覚になるくらいに働きました。仕事にまみれ同僚とのグチの酒とタバコの煙にまみれて気持ちが滅入りそうな時もありました。理不尽に負けそうになった時も持ち前の根性で乗り切ってきました。
ホントに会社員って人生の墓場だなあと思った時も辞める勇気も甲斐性もなく留まりました。何よりも両親を悲しませたくなかったんですよね。
大きく考え方が変わった30代
ボクの大きな転機となったのが母の死です。
母はボクの20代最後の年に肺がんの末期だという診断を受けました。当時北陸に住んでいたボクは母に面会するために週二回片道150キロの道のりを往復していました。
そして当時付き合っていた彼女と結婚したのも親に孫の顔を見せたいという思いから。そういうきっかけがなかったら踏ん切りはついていなかったのだと思います。
結局母にとって初孫であるボクの長男が生まれたのは母が亡くなってちょうど3ヶ月後のことでした。
母が亡くなってからボクの中に新たな死生観が生まれました。命と時間の大切さを痛いほどに感じたんです。
まずは一日1箱以上吸っていたタバコをやめることから始まりました。
いざタバコをやめようとしたら太り出してきたので毎朝走り始めました。
はじめは1キロ走るだけでも息が切れて膝はガクガクになりました。でも毎日走ると決めて1キロ、2キロと次々と距離を伸ばすうちに走ることに楽しみを見出しました。
それが今やフルマラソンを走るほどにランニングに目覚めました。
仕事に毒されてタバコの煙ににまみれていたボクはいつの間にやら誰もが目を見張る健康志向の人になっていたんですよね。
死生観が変わったことで自分の人生について深く考えるようになり今まで流されるままに仕事に使っていた時間を自己啓発の時間にあてて当時は週一冊くらいのペースでビジネス書や自己啓発書を読み漁りました。
お金についての勉強を始めたのもちょうどその頃でした。
今までは仕事に没頭してただただ働くことだけが人生だと思っていたボクなりの会社員像はその中でガタガタと崩れていきました。
自分の生き方について光が差してきたと噛みしめる瞬間でした。
SNSとの出会いがさらに人生を前向きにしてくれた
そんな中で2010年に出会ったのがFacebook。当時はアーリーアダプターだったこのSNSに希望を見出し真剣に取り組み始めたのがちょうどこの頃です。
当時は話題になり始めたパーソナルブランディングという甘美な言葉に惹かれて自分を飾りとにかく自分を大きく見せるような発信をセミナーを受けて学んだりしました。
それがきっかけで多くのつながりができたのは大きな収穫でしたが、やはり自分を大きく見せることに虚しさを感じ始めてなるべく自分を小さく見せるようにコミュニケーションを重視にSNSに取り組み始めました。
それからというものSNSが本当に心から楽しめるようになり今に至ります。
本気で面白がっているとそれを面白がる人が集まってくるんですよね。
そういう連鎖は爆発的な広がりを見せていきます。
たった一つボクが言えるのはSNSを主体性を持って楽しむことで人生は間違いなく加速していくってことです。
これはこの10年やってきて実感することです。
いつまでも年甲斐もなくありたい
30代前半で始めたSNS。でもそれからもうすぐ10年になります。
Facebookで当初つながった友達はほとんどが年上の方でしたが、最近Twitterでつながる友人はほとんどが年下になります。
もちろん年上の方の経験から学ぶことは非常に多いと思います。
でも最近感じるのは年下の人(ボクの友達には大学生もいます)の可能性がもたらす力です。
ボクが若い頃には果たせなかったことが今の若者には十分に果たすためのSNSという武器であり教科書があります。
そんな武器や教科書を自在に扱う彼らから学ぶことはものすごくたくさんあります。
ボクも彼らに負けないように挑戦する気持ちを忘れないようにしています。
ボクシングをしたわけではありません。スケボーを楽しんでいたら思いっきり顔からコケました。厄祓いした途端これです。
— イトーちゃん (@SOMASOMA0416) 2018年3月4日
大ケガしなかったってことで良かったことにしよう。うん、そうしよう。#厄年男 #ただの不注意 pic.twitter.com/btAVWfU0oV
年甲斐もなく40代でスケボーを始めて厄払いに行った直後に転倒して顔面に大怪我をしたり。
よら@yora_designist が撮ってくれたお気に入りの4枚の写真。自分で言うのもなんですがなんかDJっぽいですよね(笑)
— イトーちゃん (@SOMASOMA0416) 2018年4月10日
また来年もやろう!!わいざんとコラボ出来たらいいな~この彦根ダンスホール紅花で!#DJイトーさん pic.twitter.com/t2KW1LpTty
今まで全く違う世界のものだと思っていたDJに初挑戦して集客したりだとか。
40代になってもまだまだ挑戦することがたくさんあります。
そしてSNSでつながっているボクよりも若い彼らと一緒にいると何か面白いことが起こります。そして起こせます。
それが自分の新たな行動のきっかけになったり、また自分が人を動かすようなきっかけになれたりするから本当に素晴らしい。
40代なのに年甲斐もなく!
そして50代になっても年甲斐もなく!
と言われるボクでありたい。
そう思う今日この頃です。
#彦根 からおはようございます
— イトーちゃん (@SOMASOMA0416) 2018年12月16日
もういい歳だからと自分の行動を制限する人をよく見かけます。でもボクはそういう考え方はしていません。使い古された言葉かもしれないけど今が生きてる時間で一番若い。年齢で諦めることなく体の動く限り泥臭く好奇心に従いたいと思います。#今動くことで開ける可能性
今日お伝えしたいことは以上です。
そんなボクにいつも刺激を与えてくれる球体型のコミュニティがこちらです。
レターポットで感想をいただけると嬉しいです。