みなさんごきげんよう。
お盆明けからずっと天気は今ひとつですね。今日も九州の北部では今までにないような豪雨が災害規模で発生しているようですね。九州にもSNSでつながっているお友達がたくさんいるのでとても心配しているイトーちゃんです。
さて今日はTwitterからの気づきです。良かったら最後までお付き合いください。
全裸監督というドラマ
出典:全裸監督 | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト
最近Twitterを見ているとちょくちょく話題になっているのが山田孝之さん主演でAV監督の村西とおるさんの人生を描いたNETFLIXで話題の「全裸監督」というドラマです。
村西とおるさんといえば、ボクが中学生くらいの多感な時代に深夜に親の目を盗んで見ていたテレビ番組「おとなのえほん」という番組をされていた時の印象が強いです。やたらと丁寧な言葉遣いの猫撫で声のなんかクッソエロいおじさんだなあというのが当時の印象です。
ちょっとこの「全裸監督」が気になっていたのでそれについての村西とおるさんのインタビュー記事が掲載されていました。
破天荒な人生でありながら、女性という存在を神格化して当時の男尊女卑的な風潮に一石を投じて社会通念に革命を起こし、人間という存在のキラキラもドロドロもとことん味わい描写する姿勢が本当にすごいなあと感じますよね。
「全裸監督」が観たいがためにNETFLIXに課金しようかどうか迷っているのはここだけの話です。
受容と肯定
その「全裸監督」というドラマを受けて友達のからっちが書いたnoteがまた色々考えさせられることが盛りだくさんでした。からっちのnoteは自身のツイートの深掘りが中心に構成されています。すごく思考が深いなあといつも舌を巻いております。是非ご覧ください。
表と裏という概念を考え尽くした彼が最後に締めくくっている言葉には本当に共感できる部分が多いです。
『本当の自分』なんていくら探しても見つからないのかもしれない。
だけれども、ありのままの自分を受容してもらっている間は、その人との間に、間違いなく自分が存在している。
・・・だからこそ、自らが大切に想う人の、ありのままの姿を受容していく。
この姿勢を大切にしていきたいと、切に思う。
以前にボクも平野啓一郎さんの分人主義という考え方を自分なりに落とし込んでブログを書きました。
誰しもが自分自身の中には「表の自分」と「裏の自分」というものを感じる時があるのだと思います。でも結局は表の自分も裏の自分も存在することはなく、それぞれが自分の人格の一部だと認め受け入れることですごく肚に落ちた経験があります。
もちろん、友人や家族などの大切な人に対しても同じことだと思うのです。大切な人への過度な期待が高まるとその意に反する行動をされた時に「裏」を感じてしまうのだと思います。でもそもそもその期待自体が自分自身が勝手に作り上げている幻想だということに気づき、「裏」だと感じてしまったその部分に関しても認め受け入れていくことで相手からも信頼されていくものなのだと思います。
裏表がないのではなく裏でも表でいることの大切さ
誰しも自分自身が認められたいという感情があるのですが、「表」で色々と自分を偽ったり大きく見せたりと自分でない自分を演じると疲れてどうしても「裏」が現れてしまうのだと思います。
大切なのは「表」では無理をしないで自分らしくあるということです。そうすれば「裏」が自然となくなってくるのではないでしょうか。あとは「表」にいる自分を高める努力をしていけばいいのだと思います。そうすれば「裏」にいる自分も高めていけるのではないかと思います。
誰もが自分自身を発信できる時代。オンでもオフでもシームレスでいるということが「自分らしい生き方」や「コミュニケーション」には欠かせない力なのだと思います。だからこそからっちのいうように今ある「裏」の自分の受容が大切なんじゃないでしょうか。
そして同じようなことをあーりんに教わったことをここに報告します。
裏表を作るのではなく裏でも表でいよう。本当にその通りやなあ。裏方で働く人にも大事なお客さんにも見せる態度は首尾一貫してる。そういう人こそ長く愛される人なんだと思う。何もこれは芸能人だけでなくボクら一般人にも通じることだと思う。同僚にも取引先にも家族にも表でいよう。笑顔を届けよう。
— イトーちゃん (@SOMASOMA0416) August 24, 2019