イトーちゃんのあたまの中

会社員2.0を目指して日々奮闘するイトーちゃんのあたまの中を公開します

【思考】看脚下することで生き方は変わる|あたりまえは永遠ではないということ

みなさんごきげんよう

最近家飲みで飲み過ぎてしまうという失態を繰り返しているイトーちゃんです。

f:id:SOMASOMA0416:20190324165515j:plain

滋賀県在住会社員です

自堕落にもほどがあると反省を重ねる次の朝です。

 

さて、そんなボクですが最近会社の社員研修を受けてから致知という雑誌の定期購読をしています。これがなかなか響くものが多くてこれからでもまだまだ色々吸収できるなあと感じている40代です。

 

今日はそんな致知という雑誌からの気づきです。

 

看脚下というエモい言葉

f:id:SOMASOMA0416:20190529221949j:plain


この致知という雑誌の巻頭の特集で「看脚下」という言葉を特集されていました。

ちなみにこれは禅語なんですが直訳すると脚下を看よという教えです。

筆者が松原泰道師という方から聴いたこの話を聞いたときの感想です。

看脚下とは今自分がここで何をしなければならないかをとっさに掴んで実践することだと解説された。これには目を開かされる思いがした。単に足下を見るだけでなく今ここで何をしなければならないかを知り、それを実践することが看脚下の真意なのだと腹に沁みた。

そして、それに関して筆者が思い出した話がまた深かったんですよね。それが教育者東井義雄氏がその著「自分を育てるのは自分」で書かれていた話だそうです。

大島みち子さんという女性について書かれています。彼女は顔の軟骨が腐るという難病にかかりました。その治療は長きに渡る闘病生活に及び大学在学中に河野誠さんという学生と知り合い手紙を交わす間柄になります。その大島さんが書き残した文章を集めた書集が「若きいのちの日記」という本だそうで、そこに大島さんが書かれた言葉が東井氏に、今ここで何をなすべきか、人間として何が一番大切なのかを教えられたといいます。彼女の言葉を引用します。

「病院の外に健康な日を三日ください。一週間とは欲張りません。ただの三日でよろしいから病院の外に健康な日がいただきたい」

「一日目、私は飛んで故郷に帰りましょう。そして、お爺ちゃんの肩を叩いてあげたい。母と台所に立ちましょう。父に熱燗を一本つけて、おいしいサラダを作って、妹たちと楽しい食卓を囲みましょう。そのことのために一日がいただきたい」

「二日目、私はとんであなたのところに行きたい。あなたと遊びたいなんていいません。お部屋を掃除してあげて、ワイシャツにアイロンをかけてあげて、おいしい料理を作ってあげたいの」

「三日目、私は一人ぼっちの思い出と遊びましょう。そして静かに一日が過ぎたら、三日間の健康にありがとうと、笑って永遠の眠りにつくでしょう」 

いかがでしょうか、ボクは大島さんの立場を想像し涙せずにはいられませんでした。人間は人生の瀬戸際に立てばこれほどまでに清々しい気持ちになれるのでしょうか。

そして、筆者はこの言葉で締めくくります。

自らの人生を看脚下し、見事に生きた人の姿をここに見る。若くして逝った女性の生き方に倣い、私たちも自らの看脚下を深めていきたい。 

 

人生はいつ閉じるかわからない

f:id:SOMASOMA0416:20190529222014j:plain


いかがでしょうか。なぜボクがこの話題を取り上げたかというと、最近ニュースで飛び込んでくる話題があまりにも突然に何の因果もない人たちが命を失っていることに胸を痛めてからです。

大津で発生した幼児の交通事故もあまりに突然のことでしたし、昨日東京で発生した刃物男の暴挙もそうです。胸が苦しくなるような事件があまりにも多くいのちについて考えされせられるここ最近です。本当に寿命を全うすることって当たり前ではないという現実を突きつけられています。

犠牲になった方々はその事件事故が発生する数分前まではそんなことが起こるとは想像もつかずに当たり前の日常を過ごされていたのかと想像します。本当に何が起こるかわからない世の中です。犠牲になられた方には心からご冥福をお祈りします。

 

そして、引用させていただいた大島さんのように、若くして不治の病にかかられて病床に伏されている方もいらっしゃいます。大島さんは、そんな自分の病と向き合いながら自分が今できることをやりたいと願い祈り続けられたのだと思います。

果たして、今ボクらは今ある当たり前にできていることにここまでの敬意を払うことができているでしょうか。ボクを含めてほとんどの人はあたりまえをあたりまえとしか受け取れていないのだろうと思います。

でも、いつ事件事故に巻き込まれるかわからないし、いつ災害に巻き込まれるかもわからないし、いつ余命を宣告されるような病気が発覚するかもボクらには全く予想するすべはないんですよね。

 

だからこそ今ここを大切にいきたい 

f:id:SOMASOMA0416:20190529222041j:plain


いつ何が起こるかはもちろんわかりません。でもそんな不安や心配ばかりを抱えて生きることは生きづらさを感じる原因にもなりかねません。

ボクらができることは今あたりまえだと感じていることに感謝して、その人たちが生きれなかった今という時間を精一杯に生きることなのだと思います。

過去の出来事にとらわれて今を動けなかったり、未来に対して不安を抱えて動けなかったり自分の力の及ばないことに愚痴を言ったりすることで今は動いたりしません。

禅宗の僧侶で作家の枡野俊明さんもこう言っています。

「一息に生きる」。ひと呼吸するその瞬間、瞬間を一生懸命に、丁寧に生きなさい、ということです。

「三世に生きる」。「過去」「現在」「未来」人はその三世のつながりの中で生きていますが、現在を生きている時、過去はすでに死に、その現在もたちまち過去となって未来に生まれ、それが現在となるのです。

過去にいつまでもこだわっていることは、そのまま、今の生き方に対する自信のなさを表明していることです。

私たちには「いま」をどう生きるかしかない。

過去に起きた辛い出来事や過ちは今を生きる自分の糧にする強さを持ちたい。

そして、未来への不安は未来への希望をつなぐために今の行動へ変えたい。

 

そのために今一度自分の脚下をしっかり見ていきたいものです。「今」自分に何ができるかに神経を集中させましょう。そうすれば自ずと人生は悪いことばかりではなく、素晴らしいということに気づけるのではないかと思うんですよね。